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第57回(令和5年度)年次大会

日時 令和五年十月十四日(土)・十五日(日)
場所 沖縄産業支援センター(沖縄県那覇市)

 四年ぶりの地方開催となった令和五年度の年次大会では、新型コロナウイルスに関する諸規制が解除されたことにより、対面形式での総会・講演・研究発表とともに懇親会が開かれ、あわせて現地での史跡研修も実施されました。共通論題の「沖縄をめぐる軍事史」に対する会員各位の関心が高く、遠隔地であったにもかかわらず多人数の参加を得て盛会となりました。
 大会当日の十月十四日は、まず十時四十五分から総会が開かれ、次のような議案が報告・審議されて、何れも異議なく承認されました。

一、令和四年度事業報告および収支決算報告、会計監査報告
二、令和五年度事業計画案および収支予算案
三、令和五年度阿南・高橋学術奨励賞選考結果報告

 このうち阿南・高橋学術奨励賞は、『軍事史学』に掲載された論文の中から最優秀論文を隔年で選考するもので、厳正な審査の結果、今回の受賞は第五十八巻第一号に掲載した河西陽平会員による論文「独ソ開戦と『関特演』をめぐるソ連の対日情勢認識:一九四一年」と決定しました。
 総会終了後、十二時三十分から葛原和三氏(元陸上自衛隊幹部学校戦史教官)を講師として、「沖縄戦における第六十二師団の戦闘」と題する基調講演が行われました。この講演では、太平洋戦争末期の沖縄戦における主陣地帯の防御を担当した第六十二師団の戦闘について、その経緯を解説するとともに、①日米両軍の損害比較から見た評価、②第六十二師団としての配備・指揮上の問題点、③第三十二軍としての作戦指導上の問題点とその影響に関し、長年のご研究にもとづく考察をお話しいただきました。また翌日の史跡研修に資するための予備知識として、「反射面陣地」や「坑道陣地」の特性について、「地形・地物」や「火力と築城」といった基礎知識を踏まえて説明いただきました。
 続いて十三時四十分より、我部政明氏(琉球大学名誉教授)を講師として、「沖縄返還と日米関係」と題する特別講演が行われました。この講演では、一九七二年の沖縄返還を契機に、日米の同盟関係は沖縄に集中する米軍基地への日本の支援を通じて強化されてきたとし、日米同盟の基本は、米国に支えられる日本の安全保障と、日本による米軍への基地提供が対をなす関係であることを、国際政治学の視点から論じておられます。
 十四時五十分からは、三部会から成る個人研究発表が、次のような内容で実施されました。

 第一部会   司会:横山久幸(防衛省防衛研究所戦史研究センター)
  • 「沖縄の防衛準備―日本軍の作戦レベルの視点から―」 齋藤達志(防衛省防衛研究所戦史研究センター)
  • 「中城村宇覇の人々が見た沖縄戦」久志隆子(元中学校教師)
  • 「沖縄における空挺特攻への道」工藤信弥(防衛省防衛研究所戦史研究センター)
 第二部会   司会:浜井和史(帝京大学)
  • 「地形と地質から読み解くグスクと沖縄戦」坂井尚登(国土交通省国土地理院)
  • 「沖縄戦における第三十二軍の戦死者収容について」河野美好(日本大学大学院生)
  • 「沖縄における戦没者遺骨の収集活動について」岩下喜博(沖縄県平和記念財団 戦没者遺骨収集情報センター)
 第三部会 司会:竹本知行(安田女子大学)
  • 「特攻隊員にみる日本への想い」宮本雅史(特攻隊戦没者慰霊顕彰会)
  • 「南京国民政府時期の陸軍大学校における総理紀念週の活動について―楊杰教育長『建国方略』の『物質建設』について語る―」 細井和彦(鈴鹿大学)
  • 「戦争が国境に迫るとき―一九九一年ユーゴスラヴィア危機とオーストリア連邦軍―」 小島郁夫(会員)

 個人研究発表終了後、懇親会会場となった「ホテルサン沖縄」へ移動し、十八時から懇親会を開催しました。久しぶりの酒席での交流に会員同士の話も弾み、盛会となりました。ちなみにこの日の大会参加者は八七名、懇親会参加者は五四名でした。
 翌十月十五日は、八時に「ホテルサン沖縄」前に集合し、バス一台に搭乗して史跡研修へと出発しました。もともと定員五〇名としていたのですが、参加申し込みが五六名あったため、希望者全員参加の方針をとり、大会委員は乗用車での随行という形になりました。なお史跡研修は、次のような行程で実施しました。
一六一高地(ピナクル)→津覇のトーチカ→一五五高地(糸蒲の塔)→嘉数高地→前田高地→首里城
 研修にあたっては、基調講演を担当された葛原和三氏に各地戦跡の解説をお願いしました。葛原氏による解説は具体的かつ詳細で、前日の基調講演による予備知識を踏まえ、沖縄戦における首里以北の戦いについて多くの知見を得ることができました。史跡研修の詳細については、齋藤達志氏による「史跡研修報告」を本誌に掲載しましたので、そちらをご覧ください。研修終了後に那覇空港へ向かい、同地で解散となりました。
 最後に、基調講演と史跡研修での解説をお願いした葛原先生、特別講演で深い知見をご提示いただいた我部先生、日頃の研究成果を発表してくださった皆様に対し、大会委員一同厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。

(文責・淺川道夫)

〈史跡研修報告〉

 史跡研究は、沖縄戦の戦闘経過に沿い、第三十二軍の前進陣地(一六一・八高地、津覇のトーチカ)~主陣地(一五五高地、嘉数高地、前田高地)~複廓陣地(首里)まで、主に第六十二師団の陣地を辿り、地形・戦跡を実際に見て戦闘様相の理解に資することを目的として実施しました。
 研修場所は、まず、第六十二師団の東海岸沿いの戦闘ということで、①一六一・八高地、②津覇のトーチカ、③一五五高地、次いで、同じく第六十二師団の西海岸沿いの戦闘ということで、④嘉数高地、⑤前田高地、最後に首里周辺の防御戦闘、⑥首里城を研修しました。大型バス一台で、ほぼ満席の五〇名の参加者を得て各研修地を辿りました。参加者は、それぞれの場所で講師である葛原和三氏の言葉を一言も漏らさないようにと積極的に参加しました。以下、それぞれの場所での研修の概要について述べます。

一 一六一・八高地(中城村)

 一六一・八高地(図1)では、まず、中城村指定文化材である監視哨を確認しました。監視哨は、高地頂上に自然石に見立てたコンクリートで頑丈に作られており、監視口からは、米軍が上陸した嘉手納海岸と独立歩兵第十二大隊(賀谷大隊)が遅滞戦闘を行った喜舎場、新垣の高地などが一望できる「戦闘指揮所」でもあったと説明がありました。ここでは、研修の最初として、前方における喜舎場、新垣から後退してきた独立歩兵第十二大隊の遅滞行動の概要、一六一・八高地で陣地占領していた独立歩兵第十四大隊第一中隊の戦闘様相を現地現物で研修しました。特に、監視哨の下に構築された地下壕などを外から確認するとともに、これらを中心とした第一中隊の陣地構成と、前方から後退してくる部隊を収容する要領などについての説明を受けました。また、周辺に残る塹壕跡なども研修しました。

二 津覇のトーチカ(中城村)

 津覇のトーチカは、中城村指定文化財「津覇のテラ」の敷地内にある、一辺一・五メートルほどの六角形のコンクリート製の構造物です(図2)。実際に誰が、何のために使用しようとしたのか現状では資料もなく不明の構築物です。この構築物の開口部(窓)は、北・北西・南・西南西の方向に四カ所作られています。講師は、ここで、研修者に「これは何でしょうか」と問いかけ、火器用のトーチカか、監視哨かの検討をしました。参加者からは様々な意見が出ました。講師は、主に西側に開いている監視口の延長線上にある第十四大隊の第一線陣地(一五五高地)における戦闘を説明した後、最終的には、開口部の大きさとその方向、内部に適当な銃座が見えないことなどからトーチカではなく第十四大隊第一線陣地への米軍の攻撃状況を背後から監視する監視哨であろうと推論しました。また、前日、個人研究発表した津覇在住の久志隆子さんが、親から聞いた話として、当時、将校が来て構築の許可を求めたことなどを話してくれました。

三 一五五高地(中城村)

 一五五高地は、津覇のトーチカから監視した第十四大隊陣地第一線の最高点にあります。ここには独立歩兵第十二大隊将兵の功績を称え、かつ戦死者を慰霊する「糸蒲の塔」(図3)があります。その塔から展望できる範囲で津覇のトーチカと相互の位置関係を確認し、再度このトーチカの役割を確認しました。次に北に向かい、南進する米第七師団の攻撃様相、これに対する第六十二師団の主陣地第一線である一五五高地一帯を守備していた独立歩兵第十四大隊の戦闘様相の説明を受けました。次に、南に視線を変え、嘉数高地~西原高地~棚原高地~一五七高地~和宇慶高地~ウシクンダ原の稜線(以下、「スカイラインリッジ」)に連なる地形を確認しました。このスカイラインリッジは、一五七高地から東に流れる最後の稜線であり、米第七師団が南進するにあたり必ず確保しなければならない重要地形であることの説明を受けました。そして、このスカイラインリッジを守備していた独立歩兵第一一大隊と米第七師団との戦闘様相について説明を受けました。

四 嘉数高地

 嘉数高地では、主に独立歩兵第十三大隊の戦闘様相の説明を受けました。まず、高地頂上にある「トーチカ」を見学し、講師は、「これは説明板にトーチカとありますがそうでしょうか」、と問いかけました。講師は、津覇のトーチカと同様に銃眼口としては射線が空中に向いていることなどから、これはトーチカではなく戦闘指揮のための監視哨であることを説明しました。そして、現地で反射面戦闘の戦い方について説明をしました。当初、監視哨に監視要員のみを残し、部隊は我が方斜面の洞窟などに隠掩蔽します。当然ながら監視哨は砲弾下に置かれることからコンクリートの厚い壁で覆われており、中の監視員は砲弾下においても監視を継続することを説明し、米軍が陣地頂上に上る「馬乗り攻撃」に対しては、我が方斜面からの砲迫射撃、洞窟からの部隊の出撃により稜線上で戦闘を行う「まな板戦法」という反射面陣地の戦闘様相について説明を受けました。
 続いて展望台に上り一日で二二両の戦車を撃破したことで有名な嘉数の対戦車戦闘について説明を受けました。こうした嘉数の戦闘で、米第九十六師団を約二週間阻止しましたが、牧港方向から夜間奇襲上陸した米第二十七師団により嘉数西南方の伊祖高地を奪取されたため撤退せざるを得なく、続いて前田高地での戦闘に移行していく経過の説明を受けました。

五 前田高地

 前田高地では、まず、北方の嘉数、新垣、一六一・八高地、棚原などの地形の説明を受け、全体の位置関係を確認しました。一方、当時の状況として、四月二十二日、第三十二軍は防御態勢を変え、第二十四師団を島尻地区から転用して、城間~前田~幸地~翁長~小波津~我謝の線に新陣地帯を構成し防御態勢を整えたことを説明しました。講師は、島尻から前進してきた第三十二連隊第二大隊の志村大隊長が、前田高地で防御していた独立歩兵第十二大隊の賀谷大隊長と引継ぎを行う際のエピソードを紹介しました。そして前田高地における反射面陣地の戦闘様相、五月四日には第三十二軍が攻勢を行い、第三十二連隊第一大隊(伊東大隊)が棚原高地まで進出したものの失敗し、またその攻勢における損害がその後の防御にどのような影響を与えたのかの説明を受けました。
 そして前田高地の東端にある「為朝岩」を一回りするなど同高地一帯を散策しました。また、前田高地の南斜面を一望できる場所で首里方面の地形、特に首里両翼の緊要地形である「運玉森」(ピナクルヒル)、「天久台」(シュガーローフ)を確認し、米軍の前田高地奪取以降の首里高地の攻撃の様相について説明を受けました。

六 首里城

 第三十二軍司令部のあった首里城では、最初に守礼門から歓会門の途中にある第三十二軍司令部壕坑口を見学しました。講師からは、総延長一、〇〇〇メートルにも及ぶ司令部壕の構成、長勇参謀長により「天ノ巌戸戦闘司令所」と銘ぜられたこと、長期にわたる兵員ら一、〇〇〇人以上による司令部壕での生活がどのような環境にあったのかなどの説明を受けました(図4)。また、首里城西側の展望台に行き、米軍により天久台が奪取された以降、首里一帯が重迫砲弾の射程下に入り、壕口にも砲弾が飛来する状況下において第三十二軍司令部壕内での作戦会議が開かれたこと、最終的に島尻地区へ後退することが決定された経緯について説明を受けました。
 最後に首里から展望できる八重瀬岳~与座岳などの地形を眺めながら、この島尻地区への後退の結果、同地区での軍と住民が混在し、沖縄戦の戦死者の半分がここで発生したことなど、その後の影響の大きさについて説明を受けました。
 研修は、首里城での研修をもって終了しました。参加者からは、一万歩以上歩きました、という声が聞こえるほど、晴天の絶好の研修日和の中戦跡を散策し、無事終えることができました。研修の目的であった第六十二師団の陣地を辿り、地形・戦跡を実際に見て戦闘様相を理解するということは十分に達成し得たものと思います。参加者は、それぞれの予定に従い、首里城、那覇市内、那覇空港で解散しました。

(文責・齋藤達志)

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